「久しぶりの旅行」
2020年、コロナ禍での自粛生活が続く中、私の心はどこかぽっかりと穴が空いたようだった。一人旅は私にとって、ただの趣味ではなく、生きがいそのものだった。旅先での出会いや風景、温泉や料理、そのすべてが私の心を満たしてくれる大切な時間だった。しかし、世界が変わり、自由に旅をすることができなくなった日々の中で、私はどうしようもない空虚さに苛まれていた。
旅先で知らない街を歩き、初めての景色に胸を躍らせるあの感覚。温泉に浸かり、心地よい湯気の中で日常を忘れるひととき。食事を味わいながら、その土地の文化を感じる時間。そのすべてが奪われた日々は、ただ単調な毎日が繰り返されるだけだった。家と仕事を往復するだけの生活は、心をどこまでも乾かしていくように思えた。カレンダーを見ても、特別な予定はなく、いつからか曜日の感覚さえも曖昧になっていた。
そんな中、Go To トラベルキャンペーンが始まり、ついに私は旅に出る決意をした。選んだ宿は東京・世田谷にひっそりと佇む「由縁別邸 代田」。都心にありがらも、喧騒を忘れさせてくれる静寂の宿で、心と体を解きほぐす時間を過ごした。
「旅の始まり」
久しぶりの旅行に心躍らせながら、小田急線の世田谷代田駅で下車。駅構内は思ったよりも人が多く、旅行を自粛していた期間の長さを思うと、少し驚いた。それでも、以前東京を訪れたときに比べれば、人通りはかなり少なく、コロナ禍の影響を感じずにはいられなかった。
駅から歩いて数分の場所にある「由縁別邸 代田」は、都会の中とは思えないほど落ち着いた佇まいだった。門をくぐると、まるで別世界に足を踏み入れたかのような静寂に包まれる。木の香りが心地よく、和の趣が漂う建物が迎えてくれた。
チェックイン時には、フロントスタッフが丁寧に手指消毒を促し、検温も実施されていた。館内ではマスク着用が義務付けられ、至る所に消毒液が設置されている。感染対策が徹底されていることに安心しつつ、案内された客室へ。
客室は洗練された和のデザインが光る空間。畳の香りが広がり、障子越しに柔らかな光が差し込む。都会の喧騒を忘れさせてくれるこの空間に、自然と深呼吸したくなった。
「温泉と癒しの時間」
「由縁別邸 代田」の魅力の一つが、箱根から運ばれる天然温泉。都会にいながら本格的な温泉を楽しめるのは、まさに贅沢の極みだ。夕暮れ時、温泉へ向かうと、湯気の向こうに風情ある露天風呂が広がっていた。
温泉の入口では、人数制限が行われており、混雑を避ける工夫がなされていた。入浴時以外はマスクの着用が求められ、脱衣所には適度な距離を取るようにマークが貼られていた。
湯に身を沈めると、ふわっと体が浮くような心地よさが広がる。箱根の湯がじんわりと肌に馴染み、日々の疲れが溶けていくようだった。中庭を望む内湯は、障子越しに差し込む柔らかな光が湯面に揺れ、幻想的な雰囲気を醸し出している。木のぬくもりを感じるヒバの露天風呂に足を伸ばせば、檜の香りがほのかに漂い、深いリラックスをもたらしてくれる。静寂の中、耳を澄ませば、時折聞こえる風の音。目を閉じると、都会にいることを忘れてしまいそうなほどの癒しに包まれた。
「夕食のひととき」
温泉でしっかりと温まった後は、楽しみにしていた夕食。こちらの食事は、和の趣を大切にした会席料理。旬の食材を生かした品々が、美しく並べられていた。
前菜には、繊細な味わいの季節の小鉢。御造りには、新鮮な魚が並び、一口ごとに舌の上で旨みが広がる。そして、この日のメインはすき焼き。鉄鍋の中で割り下がぐつぐつと煮立ち、甘辛い香りが立ち上る。その香りに食欲を刺激されながら、箸を手に取った。
まずは上質な牛肉をひと切れ、そっと鍋に沈める。じゅわっと広がる脂の旨みと割り下のコクが絡み合い、見るからに美味しそうだ。溶き卵にくぐらせ、一口食べると、舌の上でとろけるような柔らかさと濃厚な旨みが広がる。甘みのある長ねぎ、しっかりと味を吸い込んだ焼き豆腐、歯ごたえの良い春菊。それぞれが調和し、一つひとつの食材が絶妙なハーモニーを奏でていた。
食事の提供も感染対策が施されており、スタッフは全員マスクを着用し、会場の席も間隔が取られていた。料理を味わいながらも、以前のように気軽に話せない空気感に、少し寂しさを覚えた。
締めには、炊き立ての土鍋ご飯。ほのかに香るおこげの風味が、食欲をさらにそそる。最後の一粒までじっくりと味わい、心もお腹も満たされる至福の時間となった。
夕食後、部屋に戻ると、障子の向こうに広がる夜の静けさが心地よく感じられた。都会の真ん中で、ここまで穏やかな時間を過ごせるとは思わなかった。窓を少し開けると、涼やかな風がそっと頬を撫で、夏の暑さをほんのひととき忘れさせてくれる。
畳に座り、ふと今日一日を振り返る。温泉に浸かり、美味しい料理を堪能し、そして今の時代ならではの旅の形を体験した。感染対策を意識しながらの旅行は、以前とは異なる緊張感もあったが、それでも旅ができる喜びが心に満ちていた。
「夜明けのチェックアウト」
翌朝、目を覚ますと、柔らかな朝の光が部屋を優しく照らしていた。朝風呂で目を覚まし、湯上がりの爽快感に包まれながら朝食会場へ。
朝食は、炊きたてのご飯と味噌汁、旬の食材を活かした小鉢が並ぶ和の膳。焼き魚の香ばしさが食欲をそそり、出汁の効いた味噌汁がじんわりと体に染み渡る。シンプルながらも、丁寧に作られた料理に、朝から幸せな気持ちに満たされた。
名残惜しさを感じながらも、チェックアウトの時間。最後にもう一度、館内をゆっくりと歩き、和の美しさを目に焼き付ける。都会の喧騒を忘れさせてくれたこの空間に、心からの感謝を込めて宿を後にした。
「由縁別邸 代田」で過ごした時間は、まさに“都会の中の隠れ家”という言葉がぴったりだった。Go To トラベルキャンペーンを利用しての旅だったが、ただの宿泊ではなく、心を整える贅沢な時間となった。
コロナ禍での旅行は、これまでとは異なる慎重さが求められた。マスクをつけ、手指を消毒し、周囲との距離を意識しながらの移動。それでも、旅に出ることができた喜びは何物にも代えがたかった。日常から離れ、静かな空間で心を休めることの大切さを、改めて実感する旅となった。感染対策を講じながらも、旅の楽しさを感じられることに感謝し、これからも安全に旅を続けていきたいと思った。