「そうだ京都へ行こう」
思い立ったが吉日。ふと訪れたくなったのは京都だった。
古都の風情を肌で感じながら、ぶらりと歩く一人旅。京都の街並みはどこか懐かしく、石畳の道に足を運ぶたび、時代を超えて物語が紡がれているように思える。軒を連ねる町家、しっとりとした苔むす庭、ふと耳に入る祇園囃子の調べ……。歩くたびに、心が研ぎ澄まされていくようだった。
「ぶらり旅にちょうどいい和室」
今回の宿は「和泉屋旅館」。高級ホテルではなく、歴史と風情を感じることができる旅館に泊まりたかったのだ。安価ながらも評価が高く、数々の旅人たちがここで心地よい時間を過ごしたと聞く。実際に足を踏み入れると、木の温もりと畳の香りが心を落ち着かせる。女将の笑顔が迎えてくれ、まるで昔から知っている場所に戻ってきたかのような安堵感を覚えた。
部屋に入ると、静寂の中に凛とした空気が流れていた。障子を開けると、白み始めた空にかすかに届く鳥の声が聞こえる。夕暮れには、西本願寺が朱に染まり、遠く響く鐘の音が旅情を深める。移り行くときと共に表情を変えるこの部屋は、心を落ち着ける場所となった。広々とした畳の間に、品のある和の設えが施されており、窓からは京都の街並みがしっとりと広がる。旅の疲れを癒すには、まさに理想的な空間だった。
「京都をぶらり」
荷を解く間も惜しみ、私はすぐに街へと繰り出した。まず訪れたのは東山界隈。石畳の坂道をゆっくりと上がると、両脇には風情ある町家が並び、軒先には京菓子やちりめん細工、手描きの扇子が美しく陳列されている。京ことばが飛び交う土産物屋の前を通るたびに、歴史の中に紛れ込んだような感覚に包まれた。
五条坂を抜けた先、清水の舞台へと足を運ぶ。そこから見下ろす京都の街並みは、言葉を失うほどに美しかった。淡く霞む東山の稜線、遠くにそびえる五重塔、赤く染まる屋根瓦が、夕陽に照らされて静かに輝く。舞台に立ち、しばし目を閉じると、吹き抜ける風に古都の息吹を感じた。
次に向かったのは祇園。薄灯りに包まれた細い路地を歩くと、どこからか微かにお香の香りが漂ってくる。格式ある茶屋の前を通り過ぎたその時、ふと視界の隅に舞うような動きが映った。黒髪を結い上げ、白く染め上げられたうなじがひときわ美しい芸妓の姿だった。静かに歩くその立ち姿は、まるで一枚の絵のように洗練され、思わず息を呑んだ。
さらに先へ進み、白川のほとりへ出る。川沿いには柳が揺れ、朱塗りの橋が夜の静寂に浮かび上がる。耳を澄ませば、遠くから微かに三味線の音色が聞こえてくる。しっとりとした京都の夜、静かに水面を滑る風が頬を撫で、心が満たされていくのを感じた。京都という街は、ただ歩いているだけで、時の流れが緩やかになる不思議な場所なのだ。
「暖かい夕食」
夕暮れ時、旅館に戻ると、一息つくと、女将が夕飯の準備をしてくれていた。夕食はしゃぶしゃぶ。卓上に運ばれた鍋の湯が静かに揺れ、昆布出汁の芳醇な香りが立ち上る。その香りを胸いっぱいに吸い込み、箸を手に取る。シンプルながらも奥深い昆布出汁が決め手となり、口に含むと、じんわりと広がる旨味が舌を包み込む。まろやかな特製のごまだれが肉の甘みを引き出し、爽やかなポン酢が後味を引き締める。一口ごとに、京都の夜の静けさと相まって、心がほどけていく感覚に酔いしれた。
主役の牛肉は、薄くスライスされた霜降りが美しく、湯にくぐらせると一瞬で淡い紅色に変わる。その一枚を口に運べば、口溶けの良い脂が舌の上でじわりと広がり、濃厚な旨味が喉の奥へと流れ込む。その余韻を感じながら、旬の京野菜もいただく。瑞々しい水菜、ほのかな甘みを含んだ京菊菜、しゃきしゃきとした歯触りの九条ねぎ。いずれも鍋の旨味を深める名脇役であり、京都の豊かな食文化を体現するかのようだ。
食材が織りなす調和の妙に感嘆しながら、時折湯気が立ち上る鍋を眺める。じっくりと味わうことで、ただの食事ではなく、京都の一夜を噛みしめる時間となることに気づく。熱い出汁が染み込んだ湯葉をそっと口に含み、上品な味わいに浸る。心も体も温まり、至福のひとときを堪能しながら、京都の夜をゆっくりと味わった。
「夜明けのチェックアウト」
翌朝、目が覚めると、障子の向こうから柔らかな朝日が差し込んでいた。朝食の膳が運ばれる。湯気立つ白米に、焼き魚、出汁のきいた味噌汁。京漬物の酸味が食欲をそそり、丁寧に炊かれた煮物がじんわりと胃に染みる。旅先での朝食は、なぜこうも胸を打つのか。ひと口ひと口に、旅館のもてなしの心が宿っているようだった。
さらに目を向けると、食器の美しさにも心を奪われる。京焼の繊細な器に盛られた料理は、まるで芸術品のように端正な佇まいを見せる。漆塗りの椀の艶やかさ、陶器の温かみが、朝の食卓をより一層引き立てていた。器を手に取るたび、その感触と佇まいに、京都の伝統の息吹を感じる。
熱いお茶を一杯すすり、そっと旅館の玄関を出る。またいつか、この街へ戻ってこよう。そんな思いを胸に、新たな旅路へと足を踏み出した。