「格式と美食に酔いしれたい」

 ずっと前から気になっていたホテルを事前に予約し準備していた。待ちに待った当日。車を借りてなれない運転で一人旅へ。目的地は「蒲郡クラシックホテル」。歴史と格式を纏うこの場所に、心の赴くまま身を委ねてみたかったのだ。そこそこ長い運転時間であったが、全く苦ではない。これから待ってるホテルにただひたすらに心が躍っている。初めて生で見る蒲浦クラシックホテルは格調高く華麗な城郭風建築の外観が、旅人を迎え入れるその姿に、再び心が踊る。エントランスをくぐれば、クラシカルで知的なアールデコ様式のインテリアが広がり、その洗練された佇まいに心が奪われる。

チェックインを済ませると、フロントで思わぬ知らせを受けた。「キャンセルが出たので、海側も山側もお選びいただけますが、いかがなさいますか?」。一瞬、心が揺れる。目の前に広がる穏やかな三河湾、そしてその向こうに点在する緑の島々——なかでも、天然記念物にも指定される竹島の姿が目に浮かぶ。しかし、当初の自分の直感を信じ、静寂と落ち着きを求めて山側を選択することにした。

 「歴史と文化」

このホテルには長い歴史がある。かつて多くの文人や著名人がこの地を訪れ、悠然たるひとときを過ごしたという。その面影を残すクラシカルな空間に足を踏み入れた瞬間、時の流れが緩やかにほどけていくのを感じた。

広々とした窓からは、四季折々の美しさを湛えた庭園が広がり、木々の囁きが静かに耳をくすぐる。どこまでも落ち着きのある調度品が並ぶ部屋は、まるで遠い時代の優雅さを現代に蘇らせたかのようだ。ここでは時間すらも品格を持ち、しっとりと流れていく。

「息を呑む紅葉の景色」

日中は観光に出かけることにし、車を走らせて少し離れた「香嵐渓」へ向かう。そこに広がっていたのは、まさに天地が織りなす極彩色の夢幻世界だった。秋の訪れとともに、この地は壮麗な錦の世界へと変貌する。四千本ものもみじが燃え立つように色づき、赤、橙、黄金の光が渦を巻く。視界すべてが絢爛豪華な色彩に包まれ、現実とは思えぬほどの美しさに心が震える。風が吹けば、無数の葉が宙を舞い、まるで大地そのものが緋色の衣を纏うかのようだ。まるで火の粉のように揺れながら、儚くも優雅に散る紅葉が、命の美しさを謳いあげているように感じる。

足元に降り積もる落葉すら、繊細な刺繍のように彩りを添えている。陽光を浴びた葉が宝石のように輝き、そこを歩くたびにさらさらとした心地よい音が響く。光と影が織りなす幻想的な風景に、ただただ息をのむ。今まで幾度となく紅葉を見てきたが、これほどまでに心を揺さぶられたことがあっただろうか。この瞬間に立ち会えた幸運を噛みしめながら、しばし言葉を失う。

「結局肉は旨い」

 ホテルへ戻る頃には、すっかり日が落ちていた。次に待つのは、楽しみにしていた夕食。フレンチとステーキの「六角堂」、どちらにするか迷った末、今回はステーキを選択。席に着くと、目の前に広がる鉄板がすでに舞台のように見える。シェフの巧みな手さばきが奏でるリズム、立ち上る香ばしい煙、焼ける音——五感のすべてが一瞬にして料理へと惹き込まれる。

運ばれてきた国産のフィレステーキは、ナイフを入れた瞬間にわかる極上の柔らかさ。その刃が肉を通り抜ける感触すら、まるで絹を裂くように滑らかだ。口に運べば、噛むごとに肉汁が溢れ、豊潤な香りとともに舌の上を滑り落ちる。濃厚な旨味がじわりと広がり、まるで口の中で余韻の交響曲を奏でているかのようだ。シンプルな味付けだからこそ、肉そのものの力強さが際立ち、一噛みごとに幸福が満ちていく。頬が自然と緩み、思わず目を閉じてしまうほどの美味しさ。これぞ、真の贅沢。

せっかくだから海鮮も、と単品で注文した車海老は、焼き上がると同時に弾けるような香りを放つ。殻を外すと、ぷりっとした身があらわれ、その弾力が舌を跳ね返すようだ。噛むたびに甘みが溢れ、海の恵みが凝縮されたかのような濃厚な味わいが広がる。続いて運ばれたミル貝は、噛むほどに奥深い旨味が滲み出し、まるで潮騒の記憶を舌の上でたどるかのようだ。噛み締めるたびに感じる磯の香りが、静かに夜の余韻へと誘っていく。

美食とは、ただの食事ではない。味わい、感じ、心を満たすもの。今まさに、そんな至福の時間を噛みしめているのだ。肉で腹が膨れた後に睡魔に襲われ気持ちよく眠る。

「夜明けのチェックアウト」

目覚めると窓の外は柔らかな朝焼けに染まっていた。いつもの名残惜しく思う帰り際。帰る前にもう一つ、訪れたい場所があった。「海辺の文学記念館」。このホテルで過ごした素晴らしい時間、その歴史や物語をより深く知りたくなったのだ。静かな海風に吹かれながら、往年の文豪たちが愛したこの地の魅力に、そっと思いを馳せる。この地に足を運んで直接五感で感じることで得た歴史と文化。これぞ一人旅の醍醐味。自分のペースで好きに興味が赴くままに行動できる。僕だけが独り占めをしているようなそんな風にさえ思ってしまう。少々くつろぎ過ぎてしまったな。早く車を返しに行かないと。