「自然を感じる東北の地へ」

 岩手県花巻温泉郷に佇む「愛隣館」は、自然と調和しながら心を癒す宿。その名の通り、訪れる人々を温かく迎え入れ、穏やかな時間を提供してくれる。日々の喧騒を離れ、一人旅でこの宿を訪れることを決めたのは、自分自身と向き合う時間を持ちたかったから。東北の山々に抱かれたこの地で、ゆったりと流れる時間の中に身を委ねたかった。

新花巻駅から車を走らせること約30分。深まる緑に包まれるようにして、愛隣館は姿を現した。木々に囲まれたその佇まいは、まるで山の静寂の中に溶け込むかのようで、一歩足を踏み入れた瞬間、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。ロビーに入ると、木の温もりを生かした落ち着いた空間が広がり、優しい灯りとスタッフの笑顔が迎えてくれる。

「文学を感じる」

宿に向かう前に、少し寄り道をして「宮沢賢治記念館」へ足を運んだ。愛隣館から車で15分ほどの場所に位置するこの記念館では、宮沢賢治の生涯や作品の背景に触れることができた。展示されている手書きの原稿や愛用品を眺めながら、彼がこの地で感じた風景や想いに思いを馳せる。窓の外に広がる花巻の自然を眺めながら、彼の詩に描かれた世界がより鮮明に感じられた。

館内をじっくりと見学した後、再び車を走らせ、愛隣館へ向かう。案内された部屋は、シンプルながらも洗練された和室。大きな窓からは四季折々の自然が望め、耳を澄ませば川のせせらぎが心地よく響く。畳の上に腰を下ろし、ふと深呼吸をする。ゆっくりと流れる時間の中で、旅の始まりを実感した。

「三つの源泉」

夕食前に、まずは愛隣館自慢の温泉へ。ここには「森の湯」「川の湯」「山の湯」と、三つの異なる趣を持つ大浴場があり、それぞれが異なる風情を楽しませてくれる。最初に向かったのは、巨岩と木々に囲まれた「森の湯」。目の前に広がる大自然の中、まるで森林浴をしているかのように、静かな湯浴みを楽しむことができた。

続いて訪れた「川の湯」は、名前の通り清流のすぐそばに位置し、せせらぎをBGMに湯に浸かることができる。肌に優しいアルカリ性単純泉の湯が、じんわりと体の芯まで染み渡り、心も体も解きほぐされていく。湯船に身を委ねながら、目を閉じて流れる時間を楽しむ。ここには、ただ静かに温泉を堪能する贅沢があった。

最後に訪れたのは「山の湯」。ここは、開放感あふれる露天風呂が魅力の湯処だ。湯に身を沈めると、目の前には四季折々の山々の景色が広がり、まるで自然の一部になったような感覚に包まれる。遠くに響く鳥のさえずり、そよぐ風の音が心を落ち着かせ、湯のぬくもりが身体の芯までじんわりと染み込んでいく。昼と夜で異なる表情を見せるこの湯は、滞在中に何度でも訪れたくなる魅力があった。

「旅を彩る夕食」

湯上がりの余韻を感じながら夕食の席へ。愛隣館の夕食は、地元の食材を活かした会席料理。一皿一皿に岩手の四季の恵みが詰まっている。食前酒には爽やかな柚子みつが供され、食欲をそそる香りが広がる。前菜は、唐土豆腐、たたきオクラの雑穀味噌、烏賊酒盗和えと、繊細な味わいが楽しめる。

御造りには、鮪、鰹のたたき、甘海老と新鮮な海の幸が並ぶ。その中でも特に心を奪われたのは、鰹のたたき。香ばしく炙られた表面と、しっとりとした赤身のコントラストが絶妙で、一口ごとに旨みが広がる。甘海老はとろけるような食感と濃厚な甘さがあり、口に含んだ瞬間、幸福感に包まれた。

蓋物の枝豆饅頭がふんわりとした口当たりで心を和ませると、次に登場したのは岩手名産のいわい鶏のどぶろく漬焼き。箸を入れた瞬間、ふわりと立ち上る芳醇な香り。どぶろくの力で引き出された鶏の旨みが口いっぱいに広がり、噛みしめるたびにじゅわっと溢れる肉汁に、思わず目を閉じて味わった。芳ばしい焼き目が香ばしく、まさに至福の一品だった。

さらに、蒸し物の茶碗蒸しが優しい出汁の風味を引き立て、メインの台の物は白金豚の鉄板焼き。じっくりと焼かれた豚肉の旨みが噛むたびに広がる。御鍋は、白身魚と帆立のしょっつる鍋。箸を入れると、魚と貝から滲み出た旨味が、出汁と溶け合って濃厚な香りを放つ。口に運べば、ふわりと広がる魚の柔らかな甘みと、帆立の貝柱の濃縮された旨みが絶妙に絡み合い、思わず「美味しい」と声が漏れるほどだった。

箸休めのくらげ酢が口の中をさっぱりと整え、最後には郷土料理のまめぶ汁がほっとする温かさを添える。食事は、牛ごぼう飯が供され、地元産ひとめぼれのふっくらとした炊き上がりが絶妙だった。締めくくりには、花巻ブルーベリー羊羹にフルーツを添えた甘味。甘酸っぱい風味が口の中に優しく広がり、最後まで満たされる食事となった。

夕食後、部屋に戻ると、窓の外には夏の夜風がそっと吹き抜けていた。夕食の余韻がまだ口の中に残っている。どぶろくに漬け込まれた鶏の芳醇な香り、しょっつる鍋の奥深い旨味、鰹のたたきの香ばしさ——思い出すだけでまた味わいたくなるほどの美味しさだった。

静寂の中、窓を少し開けると、昼間の熱気を残した空気がふわりと流れ込んできた。遠くで響く虫の声、夜のしじまに溶ける川のせせらぎ。その音に耳を傾けながら、今日一日を振り返る。

宮沢賢治記念館で感じた彼の世界、温泉で解きほぐされた心と身体、そして舌に刻まれた美食の記憶——全てが溶け合い、穏やかな満足感へと変わっていく。時間に追われる日々を離れ、自分の感覚に素直に浸れるひととき。その幸せを噛みしめながら、ゆっくりと布団に身を沈めた。

 

「夜明けのチェックアウト」

翌朝、目覚めると窓の外は澄んだ青空。朝風呂を楽しんだ後、朝食会場へ向かう。愛隣館の朝食は、地元産の食材をふんだんに使った和洋ビュッフェ。特に印象的だったのは、シェフが目の前で焼き上げるフレンチトースト。飛騨産の牛乳と地卵をたっぷりと染み込ませたバゲットが、外はカリッと、中はしっとりと仕上がる。口に運ぶと、優しい甘さが広がり、贅沢な朝の時間を彩ってくれた。

朝食後は、宿の周辺を散策。清らかな川の流れと、鳥のさえずりが響く中、深呼吸をするたびに心が洗われるようだった。

最後にもう一度温泉に浸かり、旅の終わりを惜しみながら、愛隣館を後にする。

この旅を通して感じたのは、愛隣館が持つ「癒し」の力。温泉、食、自然、そして文学の息吹までもが調和し、訪れる人々に安らぎを与えてくれる宿だった。一人旅だからこそ、自分のペースで過ごせる時間の尊さを実感できたし、心からリフレッシュすることができた。またいつか、この場所に戻ってきたい。そう思わせてくれる、特別な旅となった。